両手を打ち合わせると音がするが、
では片手では、どんな音がするのか?
個人的に好きな問です。
これ、禅問答なのですが、
いろんな読み方が出来ると思います。
片手では音は鳴らないのに
音がするからこそ
「どんな音がするのか?」
と問うている。
要は五感で捉えられるものや
思考みたいなものに
こだわっていませんか?
という風に読める。
本当は聞こえないだけ
見えないだけなんだけど
まちがいなく存在する「何か」はあるんだけど
それを捉えようとしてますか?
ということだと、、、
つまり、「聞こえないけど存在しているもの」を
聞こうとする人にしか、
先の問は答えられないわけです。
そこから準備のない人間は
目的を達することが出来ない
という教えを抽出することが出来るわけです。
これは、一般的な読み方ですが、
これを知った時、思ったことがあるんです。
これって、見えないものだけでなく
見聞きできるものですら機能している教えだと。
聞こえないものを
聴こうとする準備がないものには聴こえない。
でも、これは、聞こえるものに関しても
同じだってことです。
これはコーチをやっていると
日常的にお目にかかります。
例えば、、、
ちゃんと言葉にしているけど
その言葉を疑う人。
こういう人は善くなる準備がないのです。
片手を出しても(こちらが発信しても)
もう片手が出てこない(真摯に受け止めない)のだから
音が鳴らない(上達等、「望む結果」が出ない)
当たり前なのです。
これはそういう人を
非難したいわけではありません。
ただ、これは逆説的に捉えると
非常に有益なパターンが抽出できるから
例としてあげたのです。
つまり、ギターでもなんでも良いけど
自分がやっていることが
うまくいかない時というのは、
自分が信じている内容がおかしい可能性
を疑えってことです。
先に教えを疑う人の例を出しましたが、
それって要は
その教えと違うことを信じているわけです。
で、それでうまくいかないと言うのなら、、、
信じている内容を疑えば良いのです。
自分がA=Bだと思っている内容が
実は違っているとしたらどうなるか?
と疑えば良い。
例えば、演奏力の基礎を作るのには
基礎練習のフレーズを弾き込まないといけない、
と思っていたとします。
で、そう思って日頃練習しているわけですが
どうも上達を実感できない。
ならば、、、
基礎力作る=基礎練習のフレーズ弾き込み
という構図を疑えば良いのです。
そうやって自分の心を可能性の方に開いていく。
そうでないと自分の人生、活動の
可能性が開けるわけがないのです。
ギターだけに限らず
個人的には使える思考法だと思いますが
いかがでしょうか。