先日、宅配便の会員さんがこんなコメントを
してくれました。
頭の中で曲が流れていて、
それに合わせて自然と足踏みをしている、
なんてことはよくあることです。この曲ではないんですけれどね、
その曲のテンポと足踏みに合わせて
もぐもぐと咀嚼をしている自分がいました。中略
社会人になりたてのころ、
夢の中に仕事が出てきたら一人前だぁ―!
と上司に言われたことを思い出しました。
一見、何気ないようなコメントですが、
ここには教訓が含まれております。
何でもそうなのですが、
一途に思い続けると霊感のようなものが現れる
というのは古来から云われてきております。
古くは孔子もそうであったらしい。
孔子には「周公旦」という
理想の政治家というのがいて、
その人を夢に見なくなったことを嘆いていた…
という記述が論語にある。
何もこんな古い人を持ち出さずとも
江戸期のある漢方医にも同様の話がある。
この医者、難しい医書を
解読しておったのですが
どうにも意味がわからない。
何をしてもその内容が理解できず、
もはや、何百年も前に亡くなった著者に教えを
請うしかない、というところまで追い込まれた。
もちろん、著者は死んでるのだから
教わることも出来ず、どうしようもない。
万策尽きたと思ったときに眠気が来て
一眠りしたらなんと夢にその著者が出てきて
内容を教えてくれたという。
こんな話もある。
不動明王を信仰していた僧侶が
強い信仰心を育んで毎日修行していたところに
ある女性がその僧侶に恋をした。
その女性が僧侶に近づくと
何故か、豪火に焼かれるような気分になり
指一本触れることが出来なかった…
なんて話もある。
実際、僕も16歳のとき、親炙した恩師の夢や
私淑している先生の夢を見ることがあります。
これらは一種の霊感だと思うんですよね。
霊感なんて言うと怪しくも特別な人間のみに
許された特殊能力みたいなイメージがあるけど
結構身近だと思っています。
なんせ、いずれにせよ、真剣になればなるほど
そういう不思議が働いて通ずる、
ということはあると思います。
先のコメントをくれた会員さんも
リードギターやソロに興味がなくなった
というほどリズムを探求されている。
そうやって真摯に向き合って
日々修練していると
頭の中で曲が流れていて、
それに合わせて自然と足踏みをしている、
なんてことはよくあることです。この曲ではないんですけれどね、
その曲のテンポと足踏みに合わせて
もぐもぐと咀嚼をしている自分がいました。
こういう形で日常に自然と現れるのです。
こうなると
夢の中に出てきたら一人前
という境地と大同小異であり
今は可能性が拓いてなくとも
いずれ拓くであろうことが
長い指導経験から約束できます。
こういうことを言うと
「所詮、趣味ごときで
何をそんなにたいそうにものを言うか」
と言われることがあります。
確かにそうです。
趣味ごとき没頭しすぎると
生活がおろそかになって、
身を滅ぼす、ということも一面、
間違ってないと思います。
しかし、別の一面として。
楽しいことすら没頭できないような人間が
辛く苦しいことが多い現実をどうやって
生きていくのか?
というのも思うのです。
趣味は楽しいことだけど、程々にして
やらねばならない仕事とか優先順位の高いものは
楽しくないけど嫌がらずにやれる、などと
いう人を僕はほとんど見たことがありません。
たまーにそういう器用なことをやれると
豪語する人もいるけど、
よくよく話を聞いていると…
単に諦め、生活のために
耐えているだけではないか
と感じられることが多いのです。
だから、死んだ魚みたいな目をしておるのだな、
この人は、と感じたことが何回か思い出されます。
自分の好きにも真剣になれないようなものは
単に自分と向き合うのを怠けておるだけではないか、
と思えてなりません。
そういえばタモリさんが
「趣味だから真剣になるのだ」
と言っていたのを思い出しましたが
誠に至言であります。
好きなことに真剣になって
生活が壊れる、なんてことはありません。
むしろ好きな事に真剣になることで
好きではないけどやらねばならないことに対して
真剣になれると思います。
真剣になる、というのは心がけですが
同時にこれは習慣となると経験上思います。
真剣になることを習慣にして
損することはありません。
これはむしろ益ばかりでしょう。
ギターは楽しいことなのだから
自発的にやりはじめたのでしょう。
ならば真剣にやりましょう。
たった5分しか時間が取れなくても良いのです。
その5分は真剣にやるのです。
そうすると今までに無いことが
起こると思いますよ。
その体験があなたの信念を変え、
人生を明るくするとおもいます。
同じやるなら真剣にやりましょう。