先日、意外な質問されました。
「先生みたいにいろんな話の引き出しを持つにはどうしたらいいですか?」
だって。
「なんで話の引き出しが必要だと思ってるの?」って聞くとこう答えられました。
「だって面白い話し出来たほうがいいじゃないですか。
実際、私は先生の話聞きたいと思って聞いてるんで」
なので、更に聞きました。
「誰かに話し聞いてほしいの?」と。
すると「そうですね、興味持って聞いてほしい。」と言う。
「じゃあ、話の引き出しなんていりませんよ。
あなたは話の引き出しなんて増やさなくていい」
と言っときました。
「なんで?」って言うから理由説明したら気が楽になったみたいです。
あなたは、なぜ彼女に話しの引き出しはいらないか想像つきますか?
なぜ、彼女には話の引き出しいらないのでしょうか?
答えは簡単。
彼女にとっては話の引き出しなんて使わなくて良いから。
この方は、自分が話を人に聞いてもらえないとおもっています。
人に味方してほしいわけ。
じゃあ、話の引き出しが豊富にあれば人は味方して自分の話を聞いてくれるのか?と言われたら明らかNOです。
確かに、彼女から見ると僕の話は魅力的に映るんでしょう。
だから、話の引き出しが多かったら自分も他の人に楽しく話聞いてもらえるとおもっていますが、本当は違います。
僕は自分が生徒さんを理解したいし、そうした方が「コーチ」という仕事的に楽にスムーズに運ぶから話の引き出しが「勝手に」増えただけ。
ちなみに、コーチ業というのは人間理解が必須です。
ところが人間理解というのはものすごく膨大なのです。
脳や心理、感情という人間を構成するパーツの理解が出来たらいいってもんじゃない。
その人間が作る社会やものやサービス、仕組みと言った部分も理解しないといけないはずだし、同じ人間である僕達の祖先が何をしてきたか?みたいな部分も理解してないと人間理解はしたことになりません。
いい出したら人間理解とはすべてを理解することだとおもうのです。
だから、全然僕の引き出し量なんてペーペーレベルだし、これは完成しないはずのものに取り組んでるわけです。
僕の場合はこうやって自分が使うことを学んでるから成立しているだけ。
自分が活用する前提で学びたいと感じるものを学んでるから「話の引き出し」という部分でそれが現れているだけです。
でも、彼女の場合は僕の場合と違います。
彼女に必要なのはただの自己開示なのだから。
自分のことを話すのに相手の顔色伺うから、、、、
相手の顔色伺って相手が味方してくれそうな話しかしないから、、、
自分の事を好きになってくれる人が誰かわからなくなる。
誰も自分の味方をしてくれる人がいないように錯覚しているだけなのです。
そういうことを話すとどこかで自覚があるからものすごく納得してくれました。
気楽になった、というのはこういうことです。
さて。
このように使わないものを取り入れてうまくいくはずはないと言うのは誰もが納得できることではないでしょうか?
それをお勉強と言うのです。
これはギターも同じ。
基礎を作るとされる運指練習、スケール練習、コードの理解、、、、
何処で使うのかイメージ出来てますか?
彼女はお勉強をしていました。
僕もそういうことをしていたことがあります。
あなたはどうでしょうか?
使わないものを学んでいる。
これは一種の贅沢ですし、エンタメです。
だから、そういうことをしていてもいいんですが、使わないものを学んで何かが良くなるか?という視点で自らを振り返ると御自身がやっていることが正しく理解できるかもしれませんね。
自分が今使うものだけ学ぶ。
それで十分だと個人的には思います。