ある国の王様には一人素晴らしい家臣がいました。

しかも、イケメン。

 

それを見て王様の姉が惚れ込んでしまった。

このお姉さん、未亡人だった、ということと王様の姉という身分のせいかすでに妻がある家臣を奪ってやろうという算段です。

あ~、恐ろしや。

 

困ったのは王様です。

姉の願いは叶えてやりたい。

でも、大事な家臣には妻がいる。

いくらなんでも主君の姉を側室にするわけにはいかないから家臣の妻は捨てさせないといけなくなるからです。

 

そこで、王様は隣の部屋に姉を待機させ、イケメン家臣を呼び出しました。

王様は聞きました。

 

「今、巷では身分が高くなったら妻を変えろ、なんて言うけど君はどう思う?」

 

イケメン家臣はこう答えました。

 

「私は偉くなっても妻は変えてはならないと思います。貧しいときも苦しいときも共に乗り越えてきたのだから」

 

 

これは「糟糠の妻」という言葉の由来になった話し。

糟糠の妻とは、貧しき時も、苦しき時も共にしたパートナーの事を指す言葉です。

 

 

さて。

この話を聞いてどう思います?

 

「そりゃそうだ!」

「王様の姉め!なんちゅうヤツだ!」

「この家臣、さすが!よっ!男前!」

きっとこんな感じのことを思うのでは無いでしょうか?

 

でも、ギターになったら?

自分がいいと思った方法を2~3回ちょっとやってみて効果がないと思ったら簡単に次の方法に乗り換えたりしてませんか?

この移り身の早さが実は上達を阻むことがあるのです。

 

よく考えてみましょう。

方法というのはそれを作った人が効果があると思ったから世に出たのです。

それをいとも簡単に捨て去ることが出来る、というのは本当はおかしなことなのです。

 

自分が一度信じた方法は、少なくともなぜ機能しなかったのか、見極めてから次の方法に移るべきだということです。

あなたがいいと思った方法を編み出した人は少なくともそれでうまくいったのだから。