あるところに和尚がいました。

 

 

そこへ学者がやってきた。

 

 

彼は和尚の前で、和尚がやっている

宗教の批判を始めた。

 

 

 

〇〇は実在しない。

 

 

学術的な価値がない。

 

 

実在してるかどうか怪しい存在の残した

教えかなんか知らんが、

そんな価値のないものを一生懸命、

修めているのは滑稽だ。

 

等々。

 

 

 

和尚はえらく感心したように話を聞いていた。

 

 

「ほぅほぅ、そんなことが、、、、」

 

「なるほどのぉ」

 

 

 

時間がたって、

和尚は何も言わなくなってしまった。

 

 

黙って聞いている和尚を見て、

学者は怖くなってきた。

 

 

「この和尚、ディスられて

内心怒ってるんじゃないか?」

 

 

そう思った学者は帰ることにした。

 

 

 

和尚は学者を見送った。

 

 

そして、そのときに感に堪えない様子で

こういった。

 

 

 

「あんたは牛のケツやな」

 

 

 

学者は意味が分からなかった。

 

 

「どうせ、なんかの『教え』だろ」

 

 

そう思った彼は帰って調べてみるも

一向にわからない。

 

 

たまりかねて再度、学者は和尚のもとに。

 

 

 

「和尚、あんたがいった

『牛のケツ』の意味がわからないから

教えて欲しい。」

 

 

和尚は目を丸くしたが、

ため息交じりにこう言った。

 

 

「これやから学者は困る」

 

 

そういってこう切り出した。

 

 

 

和尚

「牛は何と鳴くかね」

 

 

学者

「『もぉー』、、、ですか」

 

 

和尚

「ケツは『尻』のことじゃろう?」

 

 

学者

「はい」

 

 

和尚

「『もぉーのしり』

つまり、『物知り』じゃな、あんたは、

といったのじゃよ」

 

 

学者は呆れはて、

肩を落として帰ってしまいましたとさ。

 

 

 

僕はこの話を聞いたときに

 

「なんといい話だ」

 

と思いました。

 

 

この話には知識の怪しさが描かれているように

思えてならなかったからです。

 

 

 

知識というのは持っているだけでは

意味がないのです。

 

 

この学者は知識に縛られています。

 

 

だから、「牛のケツ」に

深遠な理屈があると思っていた。

 

 

散々、時間と労力を投じて

意味を解読しようとしたわけです。

 

 

貴重な時間と労力を投じて。

 

 

そして、意味を解読し、

また論破してやろうとでも

思っていたかもしれません。

 

 

でも、蓋を開けたら、ただのダジャレだった。

 

 

 

確かに知識は重要です。

 

 

でも、それはあくまでツールです。

 

 

それを使って何か有意義なことをするための

ツールです。

 

 

ひいては、誰かに貢献するための

ツールなのです。

 

 

 

あなたは知識に縛られてないでしょうか?

 

 

情報に縛られていないでしょうか?

 

 

いや、自分でそれらを使って

自分を縛っていないでしょうか?