最近、よく目にするワードに

 

「修める」

 

というワードがあります。

 

 

 

修める。

 

 

おさめる、と読むわけですが、

習得する、正しい行いをする、

という意味があるそうです。

 

 

 

習得する、はたしかにイメージにあるのですが、

正しい行いっていうのは

あまりイメージにありませんでした。

 

 

「修める、、、かぁ、、、」

 

とか思っていたら祖母との思い出が

蘇ってきました。

 

 

 

小学校のときの事。

 

 

祖母に言われました。

 

 

 

「今の小学校は「しゅうしん(修身)」を

教えないの?」

 

「しゅうしん?なにそれ?」

 

「おばあちゃんの時はあったんやで、

道徳のことや」

 

「あー、道徳ならあるで、

僕、あの授業、好きやで」

 

 

 

祖母はそれを聞いて笑顔で

「そうかそうか、それはよかった」と

言っていました。

 

 

当時はその祖母の笑みが

何を意味しているのかはわかりませんでした。

 

 

普通にスルーしてました。

 

 

 

でも、今更ながら思うのです。

 

 

多分、祖母が教わった、

修身、道徳というのと

今、僕達がイメージするそれは違うのではないか、と。

 

 

 

あなたはどう思ったでしょうか。

 

 

修身、道徳、と聞いて。

 

 

きっと「堅苦しい」「古臭い」「精神論」

みたいなイメージではないでしょうか?

 

 

僕もそうでした。

 

 

 

でも、多分、祖母の教わった修身はきっと違う。

 

 

というのも、「修める」という言葉の定義を

見ると、「正しい行いをする」とあります。

 

 

 

正しい行いってなんでしょうか?

 

 

「正しい」の定義はさておいて、

その行いの中には簡単に行えないものも

存在することは容易に想像がつきます。

 

 

 

自分をコントロールして

耐えなければならないときも、

 

自分をコントロールして、

我慢しなければいけないときも、

 

自分をコントロールして、

発散させたいなにかを

抑えなければいけないこともある。

 

 

そうやって自分をコントロールしているからこそ、

習得することが出来る。

 

 

 

つまり、「修める」とは

コントロールという意味があると思うのです。

 

 

 

では、修身とは?

 

 

身を修めるのだから、

自己をコントロールする、

とも言えるのではないか?

 

 

 

そう気づいた時に、

 

「あれ?自己コントロールって

ギターでも必要なやつじゃないか」

 

と気づいたのです。

 

 

 

ギターに限らずなにか事を成そうとするなら、

自己コントロールは絶対に必要でしょう。

 

 

物事の成就に必要な事が

必ずしも心地よいものとは限らないからです。

 

 

 

もちろん、苦痛を伴うものはできるだけ

工夫で小さくすることは可能です。

 

 

でも、ゼロには出来ない。

 

 

 

ギターで言うなら、練習方法を工夫して

機械的なフレーズをできるだけ弾かないようにしたり、

練習時間を少なくしても

効果が上がるようにすることは出来ます。

 

 

 

でも、そんな方法も「実践する」ということが

なくては絶対に実らないでしょう。

 

 

その実践をするのに

自分をコントロールする必要が出てくることが

あるわけです。

 

 

 

つまり、何事をやるにも

身を修める必要はあるのです。

 

 

自己コントロールをする必要はある。

 

 

 

もし、いろんな練習方法を試してもだめだと

言う人がいるなら、、、、

 

それはもしかしたら、身を修める、

自己コントロールが

出来てないのかもしれません。

 

 

 

あなたはどうでしょうか。