昨日、ポールさんの話を紹介しました。

ここでこうおっしゃっています。

演奏レヴェルをどれだけ上げられるか…
ということとは関係なく、
どこまで深く音楽と、曲と、
他のミュージシャンとつながることが出来るか、
そういう観点でギターを弾き続ければ
それは人生そのものを有意義なものにしてくれる。

これもまた大きなヒントでして。

演奏レヴェルをどれだけ上げられるか…

これは換言するに上達ということでありますが
ここに囚われている間はまだまだである、
という思想を含んでいると思います。

そして、それは真なりでございます。

確かに、上達は価値あることです。

それを追い求めてはいけないわけではない。

しかし、それはあくまで結果でしか無い。

枝葉末節である、ということなのです。

昔、桜咲く季節に友達の家に言ったら
水の入った小さなコップに
桜の花びらがついた枝がさしてあった。

拝借してきた桜の枝はそれだけでも
確かに綺麗である。

趣もあり、価値もあるのは間違いありません。

しかし、それは必ずや枯れ、
その枝が二度と蕾を実らせ、
次の歳に花を咲かせることはない。

それは、根幹とつながってないからです。

上達にこだわることはこれと同じ事なのです。

花を愛でようとするあまり
枝を折って水に挿すようなもの。

そうやって獲得した上達は
折られた桜の枝よろしく、むなしきものになる。

では、桜の根幹にあたるものはなにか?

僕たちは上達ではなく、
何を求めると永遠なる壺中の天を戴けるか。

それは…

どこまで深く音楽と、曲と、
他のミュージシャンとつながることが出来るか、

つまり、人に学ぶ事なのであります。

先人が作った音楽、曲。

先人の生き様、苦悩懊悩、煩悶、
人生の栄枯盛衰に学ぶことです。

音楽も演奏も結局は人間がやることであります。

その人間の生き様、経験を表現した「結果」が
音楽、曲、演奏なのです。

だから人に学ぶこと。

その意味で、哲学を持つ先人
(ポールさんのような立派な哲学を持っている人)の
一挙手一投足に学ぶ気概を持つことです。

それが出来たら、下手なトレーニングや
基礎練習と名付けられた機械的フレーズや
使用用途もわからないくせに
なんとなくやらさせられる音楽理論の数々から
解放されるのは間違いない。

本当の意味であなたの音楽ができる。

これを読んで心ある方は人に学んでください。

人に学べば自らを取り戻すことが出来ますから。

追記

ちなみに、「あなたの音楽ができる」と言ったのは
オリジナルソングをつくれるよ、
という意味ではありません。

あしからず。