むかしむかし。

 

 

市場に薬を売る老人がおりました。

 

 

ところがこの老人、非常に不思議な人でして、

日が暮れると店先に置いてある

壺の中に入っていくのです。

 

 

それをみていた男がいた。

 

 

彼は国の役人をやっていた。

 

 

彼はある日、老人に交渉した。

 

 

「私、実はあなたが壺の中に入っていくのを

みてしまいました。

 

私も連れて行ってくれませんか?」

 

 

老人は快諾し、彼を連れて行くことにした。

 

 

 

壺の中に入った彼は感動した。

 

 

なんとそこには絢爛豪華な建物が建っており、

別世界が広がっておったのです。

 

 

その別世界で彼はその老人に

それはそれは熱く酒宴をもてなされた…

 

という話があります。

 

 

 

これ、「壺中(こちゅう)の天」という話です。

 

 

この話は比喩的な話であるのは

言うまでもないことですが…

 

壺中というのは僕たちの心の中。

 

 

つまり、心の中には現実的に見える

物理世界とは別にもう一つの宇宙がある。

 

という意味なのです。

 

 

現実世界…

 

つまり世俗を離れた心の中、

いわば別天地になんでもいいから一つ、

しがらみも利害もない世界を持つことは

重要ですよ。

 

ということです。

 

 

 

実際、これはそうでして。

 

 

その内容が人によっては信仰の人もいます。

 

 

宗教であってもいいし、

哲学でもなんでもいい。

 

 

これが文化的な趣味とかの人もいる。

 

 

 

なんせ、そういう別天地を持っている人は

救われるという意味なのです。

 

 

現実が如何につらかろうが

それを壺中にいる間は忘れて

鋭気を養えるわけですから。

 

 

つまり、現実がどうであろうが

余裕を持てるようになる、ということです。

 

 

 

さて。

 

 

ギター演奏を始めとする音楽はまさに

壺中の天を創るものなのです。

 

 

実際、一人で落ち着いて、

静かな空間でギターと向き合っている時間に

しがらみなどありません。

 

 

利害もない。

 

 

自分だけの世界です。

 

 

 

そういう別天地、壺中の天を持っている人は

この先行き不透明で不安しかなく、

ストレスが多き現代社会を

余裕を持って過ごすことができるわけです。

 

 

かねてから…

 

見返りのないものに邁進できる人は強い

 

と言っているのはこういうことに由来します。

 

 

 

先の壺中の天は西暦400年代の書に出てくる話。

 

 

そして、その書は西暦25年~220年の話を

記した歴史書です。

 

 

ということは今から約1,700~2,000年前から

先人はこういうことを問題視していた

ということです。

 

 

 

ギターをやるのに上達をおいかけるのは

もちろん素晴らしいことです。

 

 

何も弾けないのに楽しむもヘチマもないのですから。

 

 

でも、同じ上達するにしても

壺中の天を創るためにギターをやる人と

そうでない人では時間がたてば経つほど

埋められない差となることでしょう。

 

 

こういう見返りも利害もしがらみも関係ない

世界を自らの中に持っている人こそ

道を体得できる人だと思います。

 

 

 

武道、茶道、華道というように

すべてのものは道に通ずるのです。

 

 

これは換言すると…

 

武を通して、茶を通して、

華を通して壺中の天…

 

つまり、自らの内外に宇宙を見出している

と言えるのではないかと思うのです。

 

 

こうなってこそギターひとつでも

真にやる意味があると思います。

 

 

そんな深遠な世界が直ぐ側にある。

 

 

ギターを弾いている人というのは

こういう人だと僕は思います。