ギターに限らないことですが、
どんなジャンルでも
受け入れがたい話を耳にすることがあるでしょう。
例えば、ギターで言うと
練習時間は短くてよろしい
なんて言うと、多くの人は受け入れがたいようです。
受け入れがたい、信じがたい話を耳にした時
それを拒否する人がいます。
でも、逆に「もし、それが本当だったら」と
心を開く方もいます。
ここで拒否ると可能性はありません。
特に信じられるか否かに関わらず
明るい可能性を示唆する話に
心を開かないと可能性は開かれません。
そして、心を開かなのは合理的でもありません。
例えば、先の練習時間で言うと、
短時間の練習でもうまくなるという主張は
そう信じている、もしくは確信しているからこそ
主張されているからです。
つまり、主張している人からすると
それは真実だからです。
信じられるか否かに関わらず、
それを信じて疑わない人がいるわけです。
そこに興味を持てれば、
同じことを経験できるかもしれない。
でも、それが「嘘かもしれない」と感じ
「騙されるのは嫌」という自動反応、
保身本能に振り回されると
ここで心を閉ざします。
これ、俯瞰して長い目で見た時に、
どっちに可能性はあるでしょうか。
こんな話もあります。
昔、ある人がイングヴェイの速弾きを見て
「あんなの俺にできそうにない、
あんな演奏見たら弾く気なくす」
と口にした人がいました。
当時、僕は10代でしたが意味不明なコメントだと
思ったのです。
僕も同じ映像を見ましたが、
「おぉぉ、人間はこんなこともできるんだな。
ギターってすごいな」
と思ったからです。
同じものを見ても方や弾く気をなくす。
方や可能性を感じている。
どっちが可能性あるでしょうか。
どっちが上達するでしょうか。
どっちが道に達するでしょうか。
信じがたい話を聞いた時の反応と
信じがたい演奏を見た時の反応という
2つの例を出しましたがともに共通しているのは
拒否するか、受け入れるか
という2種の反応がある、ということです。
そして、それによって
その人の可能性は開いたり閉じたりするのは
明白でしょう。
あなたはどちらを取るでしょうか。
また、どっちを採ったほうが
楽しそうでしょうか。
こういう部分に上達や楽しみの
源泉があると思えてなりません。