うちでギターコーチの修行を
している方がおられるのですが
その方がある本の一節を紹介してくれました。

こんな一節です。

僕は他のことを一切忘れられた。

音楽に集中し、楽器を弾き続けていた。

それは素晴らしい空間をもたらしてくれた。

中略

音楽からは様々な深い発見を得られるし、
それが幸福感を運んでくれる。

ある意味、音楽的創造でしか得られない幸福感。

演奏レヴェルをどれだけ上げられるか…
ということとは関係なく、
どこまで深く音楽と、曲と、
他のミュージシャンとつながることが出来るか、
そういう観点でギターを弾き続ければ
それは人生そのものを有意義なものにしてくれる。

これはポール・ギルバートさんが
ギター雑誌のインタビューで
言ったことみたいですが、
これこそ、多芸に通ずる道の歩み方だ
と思います。

教育者としても活動されている経験があるだけに
言語化も非常に素晴らしいと思いました。

まさにこういうことなのです。

演奏がうまくなる、ということは
確かに価値があることには違いありません。

しかし、それ以上のもっと素晴らしいものを
音楽はもたらすからこそ何千年と
楽器演奏という文化は継承されてきたと
思うのです。

こういう思想、哲学を得る境地を体験してこそ
楽器演奏の価値がある。

もちろん、ポールさんは
若くから志されただけに
人生のすべてを楽器演奏に捧げた期間を
得ることができた…

だから出来る芸当だ、という考えも
あるかもしれません。

でも、そういう期間がなければ
こういう境地に至れない、ということではないと
思います。

大人になっても、仕事があっても
家庭を持っていても、
自分一人の時間はまともになくても…

関係ないのです。

趣味だから、プロだから、
若いから、年老いているから
男だから、女だから
子どもだから、大人だから…

そういうことではなく
たとえ、1日数十秒でも
没頭する時間を持つ。

そういう一見、非生産的だと
レッテルを貼ってしまいそうになる時間も
積み重なったらバカにはなりません。

凡が非凡になる、というのは
かなり身近な話だったりします。

壺中(こちゅう)の天という言葉があります。

人間は別天地を持ったほうがいいよ、
いかなる境涯にあろうと、
別天地を持つことが出来る、
ということを表した物語。

ポールさんの経験はまさにこの壺中天であり
僕達も同じ経験が出来る。

それは金銭物質地位名誉という
俗物的なものとは全く違った種類の
財産となるものです。

ギター弾いているだけなんだけど
すでにそれがそんなすごい可能性を
秘めておるわけです。

壺中天を持たない人は
さぞ、毎日が世知辛く面白くないことでしょう。

面白くないから、ひねくれる。

面白くないから、被害者意識も顔を出す。

面白くないから、不善人となり
それを古来、小人と言ったわけです。

小人閑居して不善をなす、という
有名な格言がありますが、
こんな残念なことを知らず知らず犯してしまう。

壺中天の精神でギター弾いているだけで
人としての可能性も広がり
人間の器も広がっていくというのが真相だ
と思います。

同じやるなら壺中天の精神でやろうでは
ありませんか。

ギター弾いて別天地、見出しましょう。