先日、親戚の訃報を受け、見送りにいきました。
101歳で天寿をまっとうされた。
自分の家で、しかも、ちゃんと風呂に入って
最後の晩餐を済ませて
家族が朝起きて様子を見に行くと
旅立っていた、という。
最高の死に方ではないか。
斎場に向かう道すがら、
両親からそれを聞いて
「いい生き方だったんだろうなぁ」
と思った。
斎場についてお顔を拝ませてもらったら
なんともきれいな顔をされていた。
ふと、子供の頃のことを思い出す。
いつも笑っていて、冗談を言い、
気の良いおばちゃんという印象。
でも、その生き様を親戚や家族から聞いて
大いに教えられました。
商売をして、畑仕事をし、
病気になっても好きな趣味をやめなかった
という。
そして、病気をほとんどしなかった、という。
生前、よくこう言っていたそう。
「私は舅姑に一切いじめられることがなかった。
ホントありがたい。」
これはこういう事が事実として
あったか否かということが問題ではない。
それではとても浅薄なものになる。
事実の有無ではなく
本人はそういう心境で生きていた、
ということである。
そして、事あるごとに「ありがたい」と
口にされていた、と。
聞いたときに、あぁ、これが
「喜神を含む」ということか、と思わされた。
※喜神を含む…何があっても喜びを心の中に置くこと
人生はこうやって生きるべしだと
教わった気がしました。
要は、自分がやりたいと思ったことをやり
病床にあろうが好きなことをやり
現実生活するために必要なこともやり
絶えず感謝して喜神を含む。
この文章を読んでくれている
あなたはギターを弾いているはず。
ギターやりたいと思ったら
生きてる間に思う存分弾いておかないと
いけません。
音楽が好きなら生きてる間に
思う存分やっておかねばなりません。
生きてるときは
明日も今日と同じ日が続くと思う。
そして、実際、多くの人にとっては
明日もやってくるでしょう。
でも、それはどこかで必ず終わる。
それがいつやってくるのかは、
誰にもわからない。
人生における偉大な秘密であります。
だからこそ、
やりたいことはやっておかねばなりません。
心に浮かんでくることは
できるだけやっておかないといけないのです。
人生は有限であります。
自分の心を省察し、
やりたいことを毎日少しで良い。
別に何ものにもならなくていいから
寸陰を惜しんでやっていくこと。
そうすることで
後悔しない生き様を
刻むことが出来るかも知れません。
今日も仕事をして
家族と楽しみ
ギターを弾いて、音楽を楽しみ、
人生を謳歌しようではありませんか。