活動のお手伝いをさせてもらっている
ギターコーチの卵がいます。

彼が非常に鋭いことを言っていました。

今日の話はタイトルからわかるように
非常に根本的です。

そして、「戒め」であることから
内容が厳しく見えるかも知れません。

こういう話は抽象的な表現になりがちですが
僕はある意図があり、あえてそうしますので
ご了承ください。

さて。

先のコーチは自らのブログで
慧眼を示していました。

それはこういう内容です…

物事が便利になればなるほど、
使い手は貧弱になってしまうのかもしれませんね。

漁ればいくらでも出てきます。
情報に溺れています。

こんなに便利なはずなのに。
使い手である我々は貧弱になっていないでしょうか。

まさにそうであります。

貧弱とはとてもあたっている。

無料の情報を渉猟し
何も差し出さずに人の智慧を得て
聞いたことがない話を得られないと
「出し惜しみをしている」などと文句をいう…

人の智慧に敬意も感謝もない…

一昔前に「クレクレくん」というのが
ネットでいわれたことがあったけど
先の話を彼の記事で読んでて
思い出しました。

先に紹介したコーチの彼は、その文章内で
戦国武将と比較して現代人の貧弱さに
警鐘を鳴らしていましたが
ほんとにその通りであり
反省しないといけないと思いましたね。

貧弱な精神では何も為すことは
出来ないでしょう。

「ギターは趣味だ、楽しみだ」とか
口ではいうけどその実、上達方法を漁る事に
終始して…

「うまくならん、やっぱりセンスだ」
などと言うのは全く貧弱であります。

うまくならないのはセンスではなく
練習内容がおかしいのです。

効果の上がらないことを続けているから
うまくならないだけです。

効果の上がることをいつまでもやらないし、
効果の上がることは何かを探求しないから
うまくならないだけなのです。

技能というのは能動的に得られるものです。

自ら取りにいかないと得られません。

教えを承っておれば良いのだ
などという受動的な態度で
身につくわけがないのです。

ギターが上手く弾けて、
音楽を楽しんでいる人が周りにいるなら
その人を観察すると良いです。

そういう方はきっと能動的です。

自らの頭で考え、自らの仮説を
実践行動を通して検証しておるはずです。

そして、それでいて善き師友を
持っているはずです。

知識技能というのは
そうやって身につくものだと思います。

多くの人が接しているのは「情報」であります。

情報は「知識」に変えなければ
趣味一つつまらないものになりかねません。

趣味なのに楽しめないようなことで
何をなせるというのでしょうか。

僕は人間はみんな可能性があると思っています。

でも、現実そんな風に見えないのは
自分の可能性に目を向けてないだけだと
思っています。

自分の可能性を拓くには
その存在を認識しないといけません。

可能性の存在を認識するには先にも書きましたが
能動性が必要。

自ら考え、自ら仮説検証し、善き師友に
刺激をもらったり、協力してもらったりして
始めて認識できるものだと思います。

あなたは自分の可能性を信じますか?

信じるならまずは自ら考え、
仮説を出し、検証することから
スタートしてみてはいかがでしょうか。