自分の唾液を小皿に分けてそれを飲み直す…

想像するだけで
気持ちのいい話ではないですよね。

 

普段、なんとも思わずに
飲み込んでいるものなのに、
改めて喉を通すとなると
嫌悪感を抱くという不思議。

 

 

 

これは故、シスター渡辺和子さんが

ご著書の中で

指摘されている現象です。

 

 

更にシスターはこう続けています。

 

 

 

正真正銘自分のものなのに

なんとなく薄気味悪さを感じる。

 

白日のもとにさらされた自分、

または自分の部分はときに見つめがたいものを

持っているということかもしれない。

 

と。

 

 

 

確か、養老孟司さんも同様の指摘を

されていたように記憶しておりますが、

本当にそうですよね。

 

 

 

ギターも同じでして。

 

 

弾けないフレーズとか誰にでもあるにも関わらず、

練習しても弾けるようにならない日々に

ストレスを感じて辞めてしまう人も多いのが

現実のようです。

 

 

どんなギターの名手でも最初から

スラスラ弾けた人などいません。

 

 

なのにも関わらず、なぜか継続して

音楽を楽しみ続けられる人と

そうでない人に分かれるのは

 

小皿にとった唾液を嫌悪するか否かの違い

 

のように思えてなりません。

 

 

別に小皿にとった唾液を飲め、

と言っているのではありませんので

あしからず。

 

 

 

弾けない自分

努力が実らない自分

 

 

それを嫌悪しているのは

自分の足を引っ張ることになるのです。

 

 

弾けない自分も、努力が実らない自分も

あなたなのです。

 

 

そんなあなたを嫌悪したら、

現実がご丁寧にあなたを嫌悪してくれるでしょう。

 

 

「俺って全然ダメだね」と

思わさせられるような

現象にばかり注意が行くようになるのです。

 

 

 

そもそも、行動すること、努力することは

素晴らしいことでしょう?

 

 

ならば、同じ練習するのに

仕方なくやっていたり、

「どーせやっても弾けないだろうな」とか

思いながらやるのはもったいないことです。

 

 

かといって、無理やり

「俺は音楽を楽しむのだ!」

「上達なんかくそくらえ!楽しめばよいのだ」と

言い聞かせるのもなんだかおかしいですよね。

 

 

そういう、ポジかネガか、ネアカかネクラか、

みたいな対立を持ち込むのではなく

練習しているときの自分の音を

ただただ聞いていたら良いのです。

 

 

 

演奏している自分の身体の感覚に

フォーカスする。

 

 

すると判断が消えます。

 

 

自分に対する勝手な思い込みや、

自分に脳から発せられるひねくれた命令が

鳴りを潜めるのがわかると思います。

 

 

 

それが努力が実る人のメンタリティです。

 

 

「ありのままに」というフレーズが

以前流行りましたがこれは

勝手な判断をせずに、という意味では

ないでしょうか。

 

 

なんせ、自分の出す音、演奏しているときの

身体感覚を注意深く観察してみましょう。

 

 

皿に出した唾液も受け入れられるように

なるかも知れません。